きらめく、にじむ、しみつく

これは今だったさっき

■3

大変めんどくさくなった。

好きな人と過ごすために、好きではない人ともその時間を過ごす必要があったり。

イキリ散らしてる人間の喚き声をなるべく言語として認識しないように聞き流す必要があったり。

 

人に必要以上に好かれたくない。普通にモブとしてそこに居ることを許してほしい。どうして。そんなに。こいつを気に入ってるの?こちらとしては必要以上に好かれることに何もいい思い出がない。期待をしないでほしい。君からの好意の大きさは知らない。知りたくない。同じかそれより大きくは返せない。気に入られるのがこわい。

 

気に入らないと感じることが増えるのは、自分が生きにくくなるだけで、もっと寛容であればいいものを。こちらの人としての器が小さいのも、原因になっている。

 

やさしくなどなく。

嫌いなものも多く。

それなのに。

 

そんなはずではないよね?

と思ったから

どうしてそんなこと言うの?

どうしてそんな事するの?

と、あなたたちは言うのだろう。

知らない。そんなことは。どこ見て何聞いてんのか知らんが。イメージでこちらを見るのをやめたらいい。

 

大変疲れたし。とても。めんどくさくなった。

■2

人付き合いめんどいー

 

っていう気持ちを安心して話せるような人がいて、自分は幸せ者なのだろう。

 

 

信じているし、頼っている。

それが相手に正しく伝わっていて。

それが相手にとってプラスに作用して。

 

 

しあわせだね。

 

こんなにもちゃらんぽらんな生き方をしてきたのに、本当に運が良い。

 

不真面目に生きようとしてたつもりはないけれど、あまり真面目でもないことはよくわかっている。というか真面目にやることにお得さを感じなくなっている。高校までの自分が聞いたらだいぶ驚くかもしれない。

 

 

そうだなあ、今の自分を過去の自分が見たら、すごく驚くと思う。過去の自分に会いに行って、その反応めちゃくちゃ見たいけど。信じてもらえなさそうだなぁ。

 

 

その時代の自分よりも、今の自分の方が、ちゃんと「自分のために時間を使っている」ので、その点については誇っていきたいね。

 

おいらの人生を返してくれてありがとう

あかるい鉛色

多くの人から好かれるよりも多くの人の記憶に残るよりも、たったひとりの自分がいちばん大好きな人だけに好かれ覚えていてもらうことの方が自分にとっては大事だ

という二次創作小説の一文が、ずっと残っている

 

ただ、それはもしかして大変に贅沢なことなのではないかと。読んだ当時は慎ましい願いの様に見えていたけれど。今になってふと、独占欲がべたべたに強い、言われた側への呪いの様な言葉だなと。

 

ちなみに自分もたくさんの人といっぺんに関わるのは難儀だと感じるので、後者の立ち位置が大変好ましい派閥です。まあ誰かにそれをわざわざ言う日が来るとも思えませんが。

創作の中の気持ちは共感できても、その台詞のそのままを現実に組み込むのはなかなか難しい。

歌詞写経と塗りたくる話

いい文章は自分の手でも書き起こしたくなるってはっきりわかんだね

 

 

そういうことなんでしょう。

やったもんね、歌詞写経。まあ書きたくなった、という気持ちもあるけれど、当時歌詞写経は歌詞カードをコピーするようなコピー機やスキャナなんて中学生の我々の手の届く範囲には環境がなくて。買ったCDの歌詞カードを友達の間で持ち寄って書き写すことで歌詞を覚えながらも歌詞カードが手元にある状態を作る、という目的が大きかった。少なくともおいらは。歌詞写経とかいいこと言うなぁ…。

 

最近はスプラトゥーン2がなんだか全体的には楽しくなってきました。でも、今まで楽しかったはずのことが「あれ?」ってなってるところもあって、それがね寂しいんです。出来ることやわかってきたことが増えていい経験もできて楽しいのにね、過去に楽しかったことが楽しくなくなっている状態が妙に気になる。

何したらいいかわからなくなったときのおいらが極端に弱いのは、切れる手札が(見つから)ないことももちろんなんですが、その状態になると頭の中がすべて「えーと?」「わかんない」「どうしよう」だけになってるからなんですねタチが悪い。もう何かを見つけようとすることを放棄してる。そうなると他の人の言葉も先生の言葉すらも聞けなくなるので本当にそれが大変良くない。状態異常ですね。手札を切らさずに居られればまだ大丈夫なんですが。

ウデマエとして結果を出すにはまだまだ時間がかかりそうです。

きっとおいらは幸せになれない

気がするのだ。

 

その場の楽しさや

嬉しさに飛びつきたく

なってしまう、ので。

 

それが決して

悪いことではないとは

思うものの。

 

だいぶ『今』に振り回されている。

 

自分で自分のことを

今が良いからこの先も良い

今が悪いからこの先も悪い

と軽く見積るように

なってしまっている。

 

おいらはこんな生き物だったかしら

 

 

 

 

 

 

 

あんまり連絡が取れないので

しんどくなってしまって気持ちを

文字に起こしてみたんですけれども。

言うてまだ1日と経ってないんだよねこれ。

だいぶ依存してるな、これはよくない、自分のために大変よくない。

 

文字起こしの場所を用意したのは

なかなか好手ではあったと思う。

日記を書くのは

中学生の時に学校に提出する『生活ノート』とは別に、そこには書けないような、書きたくないような、でも書かずにいられなかった内容を日記として書いていた。
あれは当時よく見ていた日記サイトの影響が大きい。とても。
感情の大きさを、わかりやすくフォントの大きさや叫び声のような文字の並びで、あるいは、今で言うクソ早口オタク喋りと言われるような言葉の羅列で。
自分の日記の内容など殆ど思い出せないけれど、そのサイトの日記の自由さや楽しさに憧れて書きはじめた気持ちは今でもちゃんと思い出せるのでそういうことだと思う。
あまり使う機会のない、という意味でも憧れていたcampusのA5ノートに、ボールペンでタイトルを入れて、お気に入りのオレンジやライトグリーンのシャープペンシルで日々を重ねていった。
当時の「私」の日記は確か、中学生時代の終わりとほぼ同時に、続けていくのが困難になってやめた記憶。

その後のことは今書いても、小学生の夏休みの最終日に溜め込んだ宿題よりもやっつけになるか、それとも、意外と芋づる式に思い出すことが容易ですらすらと文章になるのか、も、しれない……ただ、あまりやりたくは、ない。
やりたくない、と、思うなら、少なくとも今やらなくてもいいと思う、これから先も。やりたくなったらやればいい。

何となく、日を暮らしていく中で、思ったこと、考えたことを置いておく場所が、トゥイッターだけでは置ききれなくなってきたように感じたのと。
考えたことを保存しておいたり、後日のおいらに確認してもらったり、文字打ちをする中で自分と会話したり、っていう長めのメモとして。

またここから、日記を始めてみようと思った。



とりあえず2時過ぎから胃痛(だいぶ治まったけれどもね)で眠れていない。セットした目覚ましアラームが鳴るまであと1時間11分。